高槻 常智山 本行寺

〒569-0078
大阪府高槻市大手町2-43

電話:072-675-0006

お寺の鐘

梵鐘  本行寺の山門をくぐってすぐ、お地蔵さまの後ろに、梵鐘があります。
 日本中の梵鐘の九割以上が、第二次大戦のときに供出され、鉄砲の弾にされたそうです。本行寺の鐘もこの時供出されました。したがって現在、お寺にある鐘は昭和三十三年に新たに作られたものであります。
 本行寺の鐘はよその寺の鐘と、ちょっと違うところがあります。それは昼の十二時と夕方の六時の二回、自動的に時を告げているというところです。
 誰も居ない鐘楼堂から、何の前触れもなく鐘が「ゴォ―ン!!」と鳴るものですから、何も知らずにお寺の前を行き交う人が時々ビックリされています。

 先日も高槻の町並みを取材に来られたテレビのコメンテーターが、演出家の企てで驚かされていましたが、お寺は何も皆さんを驚かそうと思って鐘を鳴らしているのではありません。
 今から三十年以上前のお話です。その頃、本行寺から一軒隔てた理安寺さんのご老僧が、毎日昼と夕に鐘を撞いておられました。片手で杖を突き、もう一方の手で鐘を撞くご隠居さんのお姿は、鐘の音と合間ってほのぼのとした風情のある様子でありました。
 人手によるものであり、ましてはご隠居さんがなさることですから、毎日決まった時間に必ずという訳ではなかったのですが、ご近所のひとつの日常であったように思います。しかし、しばらくして、理安寺のご老僧がお亡くなりになってからは、ここ寺町にあっても、鐘の音を聞くことがなくなってしまったのでございます。
 ちょうどその頃に、奈良の機械メーカーが『全自動鐘撞き機』を商いに本行寺にやって来ました。本行寺の先代住職が「理安寺の老僧の代わりに、本行寺が鐘を撞こうか」ということになり、現在に至っているのであります。
 昔からお寺の鐘は、寺の行事の開式を知らせるためや時を告げるために撞かれてきました。「お寺の鐘が鳴ったら帰っておいで」と外で遊ぶ子供と約束していると近隣のお母さんからお聞きすると、本行寺の鐘も少しは世間のお役に立っているのかなと思います。
 ただし、お寺の鐘は時報の役目のみで撞かれてきたのではなく、梵鐘の「梵」の字の語源が「清浄」を意味するように、清らかな鐘の響きが、人々の苦しみを打ち払う功徳となるようにという願いを持って、撞かれてきたのであります。
 本行寺の梵鐘には「聖世の教伝えて 大鐘の音こそ 浮世の夢 醒ますらめ」と歌が刻まれております。間違っても再び、鉄砲の玉になどにしてはいけません。いつまでも、心豊かにと響き渡る梵鐘であってほしいと願うのであります。 

ゆず風呂

 冬至を前にしたお寺の出来事です。
 あるお檀家さんから「うちの庭で出来た柚子です。小さくて少々痛んでますが、農薬もかかってませんから安心してお風呂にでも入れて楽しんで下さい」とたくさんの柚子を頂戴しました。
 頂いた柚子をお寺に持ち帰った晩のこと、夕食が済んでくつろいでいらっしゃる院首さんへ「お風呂にしますか?今日は柚子風呂ですよ」と母が声を掛けました。すると、院首さんは「ありがとう」とおっしゃって、いつものようにお風呂へ入って行かれました。
 何時もなら、風呂上りに「お休み」とだけ皆に声をかけ、部屋へ下がって行かれる院首さんが、なにやらうれしそうに「それがなぁ、柚子が面白いんじゃ」と言って話し出されたのです。
 院首さんによると、湯船には十個ほどの柚子が浮かんでいて、そのままでは風呂に入り難かったので、掛湯をした桶で足元のほうへ柚子を寄せてから、湯船につかったそうです。すると、ぷかぷかと足元で湯に揺られていた柚子たちが、 仲良くならんで院首さんの顔の方へやって来たというのです。その様子が「なんとも、可愛らしいんじゃ!」と笑ってお話下さいました。
 院首さんが、ほんとうにうれしそうにお話なさるものですから、柚子のことなどすっかり忘れていた私も、柚子風呂に興味をそそられてしまいました。
 そして院首さんの話の後、続いて風呂に入った母が出て来て、とうとう私の番が回ってきました。柚子の香りでいっぱいになった風呂場で、院首さんがされたであろう通りに、柚子たちを足元へ集め、湯船につかってその時を待ちました。すると、柚子たちは私の前でも同じようにぷかぷか並んでやって来てくれました。虫に食われてごつごつしたのや、まだ青さの残ったのや、大きいのや、小さいのがおりましたが、みんな仲良く浮かんで、楽しそうなのです。その様子に私も、自然とうれしくなっておりました。
 それに、何も言わなかったのですが私より先に入った母も、きっと間違いなく同じ事をしたんだろうなと思うと、余計に面白くなって、ひとり風呂場で笑ってしまいました。

『気』について

 「あのね、お上人。私ね、お経もほとんど読めんし、意味もよう解らんのやけど、お寺にお参りしたら、なんか、その空気というのか、雰囲気いうのか、そんなもんにホッとするんです」
 これはある檀家さんが、私に仰られた言葉で、このお話しをいただいた時、私は本当にうれしく思いました。
 あまりにもうれしかったものですから、この方がお寺で感じた「気」というものとは、いったい何なんだろうかと考えてみたのです。
 そこで、「き」あるいは「け」を字音とする「気」について辞書を開いて見ますと、あるものが発する目に見えないもの、ただよっているものとか、心に感じられる様子、心持ちといった説明がなされていました。
 さらに例として、天気・空気・電気・気温・景気・浮気・病気・元気・気分・気配・気品・気色など、普段何気なく使っている言葉が数多く紹介されていていることに驚かされたのです。
 この「気」の付く言葉たちを見渡して、私なりの言葉で「気」を説明してみると、「何とかなりそうで、何ともならなくて、何ともわけのわからないもの」という何だか解らない表現になりました。
 しかし、お寺に具わっているそんなわけのわからない「気」ではありますが、千年以上にわたるお寺の歴史の中で、その寺の住職さんと檀信徒の方々が、一生懸命に培ってきたものであることに間違いありません。
 私は、そんなホッとできる「気」がお寺の中に生き続けることを願ってやみません。そして、お相撲の行司さんが「見合って、見合って、発気ようい、のこった、のこった」と土俵の「気」を見分けているように、このお寺の「気」を見守っていきたいと思います。

紫陽花

 梅雨空のうっとうしい頃、バイクで走ることの多い私共にとっては、とてもやっかいな季節であります。
 しかし、お寺の境内では、紫陽花がきれいな花を見せてくれていました。お気付きの方もいらっしゃるでしょうが、近年その数も種類も増えてきています。実は、お檀家のお花作りの達人が、株分けしてお寺に下さっているからです。
 その中の一つに『ブルーキング』という紫陽花があります。その名のとおり、真っ青な大輪の花がみごとに咲く、私の母のお気に入りのお花です。ところが、鉢植えで頂いたこの花を、昨年路地植えにしたところ、真っ青な花が真っ赤に変わってしまいました。
 母は、境内で真っ赤な『ブルーキング』を見るたびに「なでやろう?」とつぶやいて、仕舞いには「あんた、なんか変な事したやろう」と、私の仕業にする始末でありました。
 困り果てた私は、さっそく達人のお檀家さんに相談したところ、紫陽花という花は、酸性の土壌なら青く、アルカリ性の土壌なら赤い花を咲かすそうで、心配しなくても、土壌改善を続ければ、そのうち元の色に戻るでしょうとのことでありました。
 紫陽花は、別名「七変化」といい、その花言葉は「移り気」だそうです。私は人間といっしょだなと感じました。お釈迦さまが「人の心は、何処までも、何処へでも移ろう」とおっしゃっているとおり、嫌な話を聞けば心が塞ぎ、善い話を聞けば心が温まる。ちょっとしたことで、落ち込みもすれば、浮かれもする。紫陽花がどんな気持ちで、花の色を変えたのか、私たちには解りませんが、きっと、突然新しい環境を与えられ、戸惑いながらもその中で一所懸命に花を咲かせようとして生きているのだと思いました。
 人が、ほんとうの幸せが何か悩みつつも、幸せになろうとして生きているように、草木は花を咲かせて幸せになろうとしているのだと思います。『ブルーキング』とよばれる紫陽花にとって、何色の花を咲かせることが、ほんとうの幸せなのか解りませんが、母の手前もありますので、立派な青い花が咲くように育ててみようと思います。

保育所のお散歩

「あのね お上人。こないだ買い物に出かけた時にね、保育所の散歩に出くわしたんです。保母さん二人が十人ぐらいの園児を連れてはったでしょうかね、一人の保母さんは赤ちゃんも抱っこしてましたわ。そしたらね、一人の女の子がぐずってたんでしょうね、ちょと遅れて歩いててね、保母さん困ってはったんです。私ね、同じ方向に行くの解ってたんで、その女の子に『おばちゃんが手つないだげるから、いっしょに行こ』て言うて、手を出したんです。そしたら、その子、今までダラッと下げてた手をサッと胸元へ引っこめて、慌てて保母さんのとこまで走って行たんです」と檀家の奥さんがお話し下さいました。
 そしてこの後、それを見ていた保母さんが駆け寄って来て、丁寧なお礼とお詫びの上で「立場上、子供たちには、知らない人に着いて行ったらいけませんと教えているものですから」と言われたそうです。
 またかと思うほど子供の連れ去り事件が伝えられるたびに、大人たちが不安にかられ、親も保母さんも学校の先生もニュースキャスターも、知らない人に気をつけろと子供たちに教えています。核家族になって、辺り一面他人ばかりがひしめく現代社会のなかで、子供たちが人を信じれなくなってしまうのではないかと心配した奥さんが、私にこの出来事をお話し下さったのです。
 護られるはずの学校にも、近所の公園にも、安全であるはずの自宅にさえも不審者が侵入し、子供たちを傷つけています。こうした事件が起こるたびに、不安になった親の気持ちが子供に伝わっているように感じます。
 勿論、子供たちに注意を促すことも大切ですが、それと同時に安心を与えることを忘れてはならないと思います。日常、私はご年配の方と接する機会が多いものですから、孫さんがおいでになるおじいさんおばあさん方に、どうぞ盛大、孫さんを可愛がってあげて、大の字になって安心していい場所があるんだということを教えて上げて下さいと、お願い致しております。
 人は優しさにふれて、優しさを覚え、そして感謝することを知ります。しかし、不安な気持ちで孤独になると、そこにはむなしさが広がるばかりです。

あなたはほんとうに信じられるものがありますか

世も末だと感じざるを得ない最近のテレビ、新聞の報道の中で、私たちは何も信じる事のできない時代を生きています。

ほんとうに信じられるものを考えたとき、家族や友人を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、いつか必ず別れの時を向えます。生まれてくる時も独りなら、死に行く時もまた独りなのです。

独りぼっちで切なくて、やはりお金しか信じられないのかと考えてしまうと、それはあまりにも寂しいのです。
スーパーに並んでいる牛肉パックの表示や、食品の賞味期限が信じられず、大騒ぎになったように、私たちは信じられないと不安でしかたなく、信じられると安心して暮せるようです。

人は何千年も前から、どんな時にも決して揺れ動くことのない心の拠り所を宗教に求めてきました。

どの宗教も必ず信じる事を求めます、それは「信じて生きる」生き方に、ほんとうの幸せがあるからなのです。