高槻 常智山 本行寺

〒569-0078
大阪府高槻市大手町2-43

電話:072-675-0006

本行寺の由来

本行寺全景画像
本行寺全景

当山は、高槻市大手町にあり、日蓮宗・常智山本行寺と号し、題目宝塔、釈迦多宝二仏を本尊としています。

その昔、高槻大蔵司村付近の丘陵に岡本寺という寺があり、文武天皇の時代(白鳳時代)の豪族の氏寺と推定されます。その寺跡に日蓮宗本照寺が建立され、戦国大名の三好元長、細川晴元の外護を受けて隆盛をきわめますが、法華一揆に続く、天文法華の乱に、あえなく焦土と化しました。三好長慶により毘沙門堂として再興されますが、高山右近公の時代に、その堂宇ことごとく焼き討ちされ、住職は上の山の祖師像(本行寺に現存)をもって備前(岡山)に逃れたとされています。後に復帰がかなうのですが、他宗との折り合いがつかず、現地復帰及び元の寺号の呼称が許されませんでした。

しかしその後、慶長元年(1596年)、一如院日重上人(後に身延山二十世法主)が、弾圧下の法華の住民と協力一致尽力して、高槻城下に日蓮宗を再生させ、常智山本行寺と号しました。当時はまだ本堂を造営することもできず、ささやかな寺院にすぎませんでした。

本行寺高槻城主 永井家第十代<br />
直興の子 直寛の書の画像
高槻城主 永井家第十代
直興の子 直寛の書

その後、第五世日東上人のとき、永井直清公が高槻城主となりました。そのころ、直清公には内願があって、古曽部の弁天に祈願されていたのですが、意のままになりませんでした。そうしたなか、本行寺の日東上人の名声を聞かれ、ぜひ祈祷を受けたいと申し出られ、さっそくに祈念されたところ、たちまちにご利益があり内願が成就されましたので、大変お喜びになり、以後深く信仰されました。

そうして、この内願成就の報恩のために、本堂を建立されました。寺の記録によりますと、このとき大工百人、人足千人をもって造営にあたり、みるみるうちに完成したとのことで、これによっても直清公の信仰の程がうかがえます。ときに慶安四年(1651年)六月六日のことでした。同月十六日、直清公は完成後初めて本行寺へご参拝になり、「当本行寺は、高槻城の艮の方角にあたるところから、京都比叡山に準じて、当城下の安全と厄除けの道場となすべし」と重ねて命じられました。

本行寺藤井竹外の墓画像
藤井竹外の墓

その後、本行寺は高槻城主祈願所となり、連綿として打ち続き、「病を除く寺」として現在に至ります。境内には、本堂をはじめ妙見堂、大黒殿、客殿、鐘楼などがあります。本堂の正面には、「唱導殿」と記した大きな額が掲げてありますが、これは、高槻城主第十代永井直興の子直寛の書(文政年間)によるものです。

直寛は、米庵に師事し、書や詩が非常に堪能であったと伝えられています。また、当山の山門は高槻城の一角にあった門といわれています。このほか、詩人藤井竹外の墓が世に知られるところであります。

本行寺門画像
もともとこの門は高槻城の一角にあった門で本瓦茸、高麗門である。従って寺の門の様式をしていない。高槻城は西暦(990年〜995年)の頃、近藤忠範が築いたのが始まりとされ、その後、目まぐるしく城主のかわった高槻城も慶安2年(1649年)永井直清が3万6千石で入城後220数年、永井氏が代々居城として明治に至った。